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中村一からみなさまへ
創立20周年によせて

2017年4月1日、当社は創立20周年を迎えます。これまでの間、さまざまな形で当社を支えて下さったみなさま方に、心より感謝申し上げます。

今春に当社が迎える新入社員は18歳です。"20歳"の当社は、彼が生まれる以前から存在していたことになり、これはなんとも感慨深い気持ちになります。改めて過去に遡ると、当社の歩みは20年よりももっと長く、実は私の生まれた時から始まっていたように思えます。そこで、当社の今日までを振り返りながら、私についてすこしお話をさせていただきたいと思います。

裕福とはまるで無縁の幼少期に得た「つくる喜び」

私は、1969年に長野県の諏訪郡に生まれました。ここは「東洋のスイス」とも呼ばれる精密工業が盛んな地域です。都会のような先進的な刺激はない代わりに、四季を通して澄んだ水と乾いた空気に包まれた静かな町で、春夏には豊かな緑に、秋には鮮やかな紅葉に囲まれ、冬季には水道管が凍結するほどの寒冷な空気が肌にしみて神経が研ぎ澄まされる、そんな自然からの生々しい刺激を受け続ける風土です。思えば、私がこの土地に生まれ落ちたことが始まりだったのかもしれません。

私が生まれたとき、家族は5人で賑やかな暮らしでした。でも3歳のときに父が亡くなり、4歳のときには祖父が、そして5歳のときには祖母が亡くなります。家族は母と私の2人だけになり、母は仕事をしながら1人で私を育てなければならなくなりました。毎日が忙しく、体力的にも余裕がなく満足に私の遊び相手ができなかったからか、母は時々私にプラモデルを与えてくれました。遊び相手もおらず遊ぶものもわずかしかない質素な暮らしの中で、私はそれだけがとても楽しみで、母からプラモデルを受け取るとすぐ中身を広げて、パーツを手順通りに組み立てていくその時はもう夢中だったことを覚えています。それを思い出すと、どうやら私は小さな頃からものづくりが大好きだったようです。

母の収入は少なく、私が成長するにしたがって家計費も増えて暮らしに余裕はまったくありませんでした。ですから母は私に早く働いてもらいたかったのでしょう。中学校生活の後半には「お前を大学に行かせることはできない。だから就職に有利な工業高校へ進みなさい」。そう言われました。でも、そのことに何の不満もありませんでした。ものづくりが大好きだったからです。そして私は母の望み通り、地元の工業高校に進学します。この進路選択は、その後の歩みを方向づける大きなポイントとなりました。

高校時代は電子工作に明け暮れる日々。そして衝撃的な商品との出会い

進学先での学科は機械科を選びましたが、その頃の私は電気やソフトウェアの分野にも強い興味を持っていました。二年生になる頃、学校の図書館で「初歩のラジオ」という電子工作の雑誌に出会います。そこには当時流行っていたファミコンの改造例や、ビデオのダビングを可能にしてしまうコピーガードキャンセラーの作り方が載っていました。私はそれらの記事に強く惹かれて、電子工作の世界にのめり込んでいきます。昼は学校で機械を学び、夜は自宅で電子工作をする毎日。好奇心と探究心は尽きることなくひたすら楽しくて、それはもう寝る間も惜しむほど夢中になっていきました。

中でも夢中になったのは「秋月電子」で売られていた「組み立てキット」でした。秋月電子とは、電子工作をする人なら誰でも知っている秋葉原の電子部品店です。組み立てキットと言えば、大抵の人はラジオとかお風呂ブザーといったものを連想すると思うのですが、そこで売られている商品は明らかに異色でした。

衝撃的だったのは「超小型シンクロスコープ」という組み立てキットです。シンクロスコープとは電子回路の波形を観察する測定器ですが、これはいわゆる「その筋の人」が使うもので、私もシンクロスコープには強い憧れを持っていました。ですが、まさかこれが組み立てキットで売られているとは思いもしませんでした。それだけでなく、キットの部品構成にも驚きました。波形を表示させるモニタ(ブラウン管)に、どこかのメーカーが「訳あり処分」したと思われるビデオカメラのビューファインダーが使われていたのです。商品の中にどこかの処分品が入っているなんて一見すると非常識かもしれません。でも逆に私はそのあまりに突き抜けた発想にとても興奮したのです。しかも、秋月電子がこのビューファインダーを仕入れるルートを持っていることにも驚きました。

▲雑誌「初歩のラジオ」1988年6月号。秋月電子の「超小型シンクロスコープキット」の応用例が掲載されていた。

驚きはまだまだ続きます。このキットにはビューファインダーをシンクロスコープとして機能させるための基板と部品が入っていたのですが、それはビューファインダーの内部回路を解析しなければ実現しないはずなのです。その解析力も見事だと感心しました。しかもこのシンクロスコープキットの価格は5,700円と、超激安でした。測定器など個人ではとても買うことのできない時代に、それがお小遣いで買える金額で販売されていたのです。それどころか、憧れの測定器を自分の手で組み立てて使うなんて、これにワクワクしないはずがありません。と言っても、シンクロスコープキットはマニアックなキットですから、興味のない人にはこのワクワクする心理が理解できないかも知れません。しかし、私たちの生活を便利にしてくれている製品がどのような仕組みで動いているのか、その秘密を知りながら組み立てて機能を再現できるということはただただ魅力的でしかなく、とにかく少年の心がくすぐられるのです。

秋月電子では、電子部品ひとつとっても個人が買いやすい価格設定になっていました。その上、利用しやすいように一つ一つ丁寧にデータシートが添付されていました。当時はまだインターネットもなく、個人でデータシート入手することは困難な時代でしたから、私はそのことにもとても感動しました。

秋月電子は、私にものづくりの楽しさと夢をたくさん与えてくれました。当社が創業以来ずっと個人向け販売にこだわっているのも、中古品を扱っているのも組み立てキット形式での販売にしているのも、すべてこの時の感動がルーツになっているのです。ただ、このときは将来自分が起業することになるとは夢にも思っていませんでしたが・・・。

▲高校生のころ私がつくった自作品たち。もっとたくさんつくったのですが残っているのはこれだけです。私は電子回路をつくることも好きでしたが、ケースを製品並みにきれいに工作することも好きでした。

就職先で身につけた数々の加工技術が今につながる

工業高校を卒業したあとは当然のように就職の道を選びます。この時も、高校進学のときと同様になんの迷いも不満もありませんでした。ただ、具体的にどういう会社を選んだらいいのか18歳の私にはよくわかりません。学校に寄せられた企業からの求人案内をいくつか眺めていたら「CAD/CAM」という言葉が目に止まりました。私はなんとなくその言葉に惹かれ、本当に、ただそれだけの理由でその会社を選び、地元のプレス加工会社に就職しました。

入社後に初めて生産現場に入りました。そこには見上げるほどの巨大なプレス機がずらりと並んでいて、地響きするほどの騒音を立てながら金属の板を打ち抜いています。私はその光景に自分の思惑とは違う空気を感じて、「すごいところに来てしまったな」と思いました。でもコンピューター制御の工作機械を使って金型を加工している工作部という部署があり、私はその仕事に興味を持ちました。数か月間の新人研修が終わった後、私は勇気を出して上司にその部署で働きたいと懇願します。それが決定に影響したのかしなかったのかわかりませんが、幸いその工作部に配属が決まりました。

私はそこでマシニングセンタやワイヤカット、放電加工機など、様々な工作機械を担当させていただきNC加工の技術と知識を身につけました。これが後にCNCの開発や中古品の販売に役立つことになるのですが、当時はそんなことは夢にも思っていませんでした。

私はその職場で仕事をする中で、高校時代に得た電子工作の技術を活かし、工作機械にちょっとした改造をしながら仕事に取り組んでいました。それは少しでも生産性を高めようと思ったからです。そして入社して2年が経ったころ、その取り組みが社長の目に留まり、私を評価してくれました。そして「お前は開発部に行け」ということになり、開発部へ人事異動となります。今思えば、生意気なことをしていたのかなとも思いますが、私の取り組みを真っ直ぐに評価してくださったことに今でも感謝の念が尽きません。

自分のすべてを注ぎ込めた幸せな職場でメカトロニクスの魅力にめざめる

異動先の開発部は、社内の省力化機械をつくる部署でした。その省力化機械とは、たとえばプレス機に自動で材料を供給したり、プレスしたあとの製品を自動的に取り出したりする装置です。

一般的に省力化機械は、電気や機械、ソフトウェアというように複合技術でつくられています。私はどの分野にも興味がありましたから、そういう仕事に出会えたことが嬉しくてたまりませんでした。さらに幸運なことに、その部署では分野ごとに担当を分けて開発するのではなく、一つの装置を一人の担当者というように開発していました。高卒の私にすべての分野を任せてもらえるなんて、それはもう夢のような職場でした。

その部署で私に与えられた最初の仕事は「自動箱替え機」の開発でした。箱替え機とは、プレス機から出てくる製品が箱にいっぱいになったら自動で箱を入れ替える装置で、プレス機を無人運転させる上では欠かすことのできない装置です。省力化機械の制御にはよく「シーケンサー」というコントローラーが使われます。私はそのシーケンサーを先輩に教わりながら初めて使ってみたのですが、それによって自分で設計した箱替え機がプログラムでコントロールできることに、たいへん大きな感動を覚えました。この感動をどう伝えたらいいのかわからないのですが、微弱な電気信号でメカをダイナミックにコントロールできることは、もうそれだけでワクワクしてきます。現在当社がメカトロニクス製品にこだわっているのは、すべてこのとき味わった感動が出発点になっています。

私はすっかりその仕事の魅力に取りつかれ、毎日夢中になって仕事に取り組みました。これが私の天職だと本気で思いました。毎日22時過ぎまで働き、休みの日も働きました。でも残業代や休日出勤代はいただきませんでした。私にとって仕事は趣味と同じであり、一言で言うと「好きだから勝手にやっている」ことなのです。それなのにお金をいただくのは申し訳ないという気持ちだったからです。そのぐらい私にとってその仕事は楽しいものでした。

秋月電子への強いあこがれ。そして起業

その後2回ほど転職し1997年に起業することになるのですが、それまでの間は一貫して省力化機械の開発の仕事をしていました。転職の理由は会社に不満があったからではなく、もっと色々なことを学びたいという前向きな気持ちからでした。それほどまでに省力化機械の仕事に打ち込んでいたのに、なぜ起業することになったのか。

それはある時、同じ会社に勤めていたMさんが「秋月電子みたいな会社を作ってみたいね」とつぶやいたその一言がきっかけになっています。Mさんは私と同じように秋月電子の魅力を知っている人です。その一言を聞いたとき、「もしそんなことができたら夢のようだ」と思いました。でもそれはあくまで夢であって現実にはとても無理だと思っていました。そもそも私は起業したいという発想すらもったことのない人間で、ずっとこのまま好きな省力化機械の仕事をしていくつもりだったのです。

ところが不思議なことに、その夢みたいなMさんの一言が頭の中で何度も繰り返えされて、そのうちだんだん夢から本気に変わっていき、数か月が経った頃にはすっかり起業する決意ができていました。当時まだ27歳ですから若気の至りというのもあったように思いますし、夢中になって取り組んできた省力化機械の仕事もちょうどそのときスランプに陥っていたということもあったと思います。でもなんといっても私の心を動かした一番の原動力は、秋月電子に対する強烈な憧れだったように思います。

そうして1997年4月1日、ついに私は起業しました。社名は「オリジナルマインド」としました。これは独創的精神という意味です。親会社などから依頼を受けて仕事をする受注型の会社ではなく、自ら独創的な製品を生み出し、いかなる企業の傘下にも入らない自立型の企業を作りたいと思いました。

このときは経営理念、つまり、会社をどのような目的でどのような方向に進めていくのかという考えを明文化してはいませんでしたが、私は「秋月電子のメカ工作版」を目指していました。それは、秋月電子が電気の街・秋葉原で電子系の組み立てキットや部品を提供する会社なら、オリジナルマインドは「東洋のスイス」と呼ばれた諏訪地域でメカ系の組み立てキットや部品を販売する会社になろうという決意です。これまで培ったものづくりの経験と精密工業の盛んな諏訪地域の特徴を生かして、自分が体験したのと同じかそれ以上に、少年の心をくすぐるような、人をワクワクドキドキさせるようなそんな会社をつくりたい。夢と希望を胸に私はやる気に満ち溢れていました。

本当にそのような会社をつくることができるのか。その自信はありませんでした。でも、それまでの仕事である省力化機械のソフト開発をしながら、仕事の合間をみてオリジナル製品を開発し、少しずつバリエーションを充実させれば、何年かかけて秋月電子のような会社にすることができるのではないかと考えていました。

▲起業時に事務所として使っていた実家の二階。

オリジナル製品を生み出すことの苦悩と挫折

ところがそれにはたくさんの困難が待ち受けていて、最初からつまずいてばかりでした。たとえば部品調達。勤めていた時、加工業者や商社の人たちは私にとても親切に接してくれました。でも起業してみると同じように接してはくれませんでした。やはり取引金額がかなり少額ですから相手にしてもらえないのです。そのときにわかったことは、これまでの親切は会社に向けられたものであって、私個人に向けられたものではなかったということ。社会の厳しさと自分の甘さを身に染みて思い知らされました。

それから、当然ながら自社商品というのは、開発する時点ではどれだけ売れるかわからないものです。その売れるかわからないものに多大な時間と費用をかけるわけです。勤めていたころは、その費用を会社が負担してくれましたし、開発期間中も給料をもらうことができました。でも私はもう独立した個人事業者です。誰も私の面倒を見てはくれません。開発資金や生活費を確保しながらオリジナル製品を開発することがどれだけ大変なことか。それを痛感する毎日でした。ですから、オリジナル製品の開発の傍らで省力化機械のソフト開発の仕事にも励みました。実に、毎日朝7時半から深夜2時ごろまで、さらに土日も休むことなく働き続けたのです。

そうして苦労しながらも何とか開発したオリジナル製品を全国各地で開催されるイベントに出展して販売してみるのですが、これが全く売れないのです。屋外での展示が多かったため、そのたびにテントを借りたり発電機を借りたりしたのですが、それらの経費さえ賄えませんでした。やればやるほど赤字は膨らみ、せっかく苦労して貯めた資金をただ食いつぶすだけの日々が続きました。もうそうなってくると、「いかなる企業の傘下にも入らない自立型の企業めざす」という夢をあきらめて、受注型に戻ろうとする引力が強烈に働きます。省力化機械の仕事は技術的な難しさはあったものの受注さえできれば金銭的なリスクはなかったからです。そして実際、精神的にも金銭的にも行き詰まりを感じた私は、とうとうオリジナル製品の開発を断念してしまいます。

しかしそれから数年後の2002年秋に、インターネットで基板加工機を自作している方々の紹介記事を見つけます。それに衝撃を受けた私は、再度オリジナル製品の開発に挑みます。まさにこれが人生のターニングポイントでした。その時開発に挑んだオリジナル製品が、のちにデスクトップ型CNCフライスキット「mini-CNC」として誕生し発売され、さらに現在の「KitMillシリーズ」へと進化していくわけです。これについては「KitMillの歴史」として別ページに詳しくまとめましたので、ぜひそちらをお読みください。

▲最初のオリジナル製品「超小型ローテーターキット」1998年5月発売。

メカトロニクス製品をもっと身近なものにしたい

当社では、創業当初からデスクトップ型CNCフライスのようなオリジナル製品も開発しつつ、中古のメカトロニクス製品の販売も行っていました。しかし、この事業も決して順調ではありませんでした。

私は、初めて省力化機械をつくった時にメカトロニクスの魅力を知りました。そしてそれを多くの人に味わってもらいたいとも思ったのです。しかし、そもそもメカトロニクス製品というのは生産設備に使われるものですから、ホームセンターには陳列されていませんし、なにより高額ですから個人が簡単に入手できるものではありませんでした。そのためには中古品を仕入れて低価格で販売すればよいのではないかと思ったのです。さらに、秋月電子が「訳あり処分品」と自社開発の基板とをセットにして他ではあり得ないほど独特な組み立てキットを販売していたように、私もそうした中古品とメカ部品をセットにした製品ができれば、人をワクワクさせることができるのではないかと考えたのです。

ところが、肝心の中古メカトロニクス製品の買い取りには大変苦労しました。無理もありません。町のリサイクルショップで扱われる一般的な中古家電とは違い、メカトロニクス製品は個人で使うものではないからです。ましてや創業した1997年は、「メカトロニクス製品をリユースする」という概念すらない時代です。さらに当時はインターネットの黎明期。つまりネットオークションすら存在しておらず、「ネット上でリユース品を売買する」という文化もありませんでした。そういった社会環境に加えて、当社WEBサイトの知名度も低かったこともあり、サイト上で大々的に買い取り案内を出しても、仕入れに結び付けることが困難だったのです。

「これはもう、自分の足で行動するしかない」と思った私は、不要になったメカトロニクス製品を企業から直接買い取ろうと、トラックを駆って走りました。少しでも仕入れの可能性があれば、北でも南でも、西でも東でもどこにでも行きました。でも仕入れ量は安定しません。工場の移転や廃業などで大量に仕入れることができる時もあれば、毎日トラックを走らせても収穫ゼロということはざらだったのです。こんな不安定な状態でしたから、「この仕事を安定して続けていくことができるのだろうか」と、強い不安を抱えていました。でも、立ち止まってしまったら何も仕入れられません。当時はとにかく毎日買い取りに走るしかなかったのです。

しかしそれから5~6年経った2003年ころ、当社が中古のメカトロニクス製品を販売していることが日刊工業新聞で紹介され、それを見た方が数名、当社に連絡をくださいました。その頃から次第に仕入れルートが太くなり、ようやく仕入れ量は安定していきました。

2008年ころになると、当社と同じように中古品をホームページやオークションを通じて販売する人たちがだんだん増えてきました。通常、そうしたライバルの出現はあまり喜ばしいことではないのですが、振り返ってみると当社にとってプラスでした。というのは、ライバルが増えたおかげで、メカトロニクス製品を買い取る業者があるのだということが広く知られるようになっていったからです。インターネットの普及は、ここでも当社にとって強い追い風となったのです。

▲1998年当時の中古品販売のページ。当時はまだショッピングカートという概念すら浸透していない時代だった。

もう一つ、中古品の販売を続けてこられたのは、神戸の矢内商店様のおかげです。矢内様は、私が中古品をWEBサイトに掲載すると、すぐに注文をくださいました。それだけではなく、プレゼントを送ってくださったり、購入した中古品を活用してつくった作品の写真も送ってくださったのです。個人向けに中古のメカトロニクス製品を販売するという業態は、おそらく当社が日本で初めてスタートしたと思うのですが、周りからは「そんなことをやっても儲からないよ」と冷笑され、当初はこの仕事がビジネスとして成立するのだろうかという強い不安を抱えていました。でも、矢内様とのお取引は私を励ましてくれました。「待ってくれている人がいる」。そう思うと自然と勇気が出てこの仕事を続けることができたのです。

▲矢内さんが送ってくださった氷柱。中にクリスマスツリーが入っている。

オリジナルマインドの将来と私の課題

会社を立ち上げるということはとても大変なことで、事業をつくることができても今度は組織をつくることができるかが大きな課題になります。私は会社員時代に部下を持った経験がなく人を扱うということが苦手で、なかなか良い組織をつくることができなかったのですが、この5年ぐらいは社員みんなと一体感を感じながら仕事をすることができています。事務所での私の席は一番奥の隅のほうにあるのですが、私はそこからみんなの働いている姿を見るのが、今とても好きなのです。

当初は私が設計したものばかりだったオリジナル製品のラインナップも、今はもう一種類しかなくなってしまいました。それは決してさみしいことではありません。創業時に私が思い描いた夢が若い人たちに共有され、その具現化に向けて一体感を感じながら働けることが幸せでたまりません。その仲間たちと、これからどのような未来をつくっていくか。経営者として明確に描いていなければならないことではあるのですが、時代の変化が激しく、明確にできるのはせいぜい一年先までかも知れません。でもこれだけは貫きたいと思っていることがあります。それは、「人類のためのオリジナルマインド」でありたいということです。人類のためなどというと何だか偉そうなことを言っているように聞こえるかもしれません。でもそんなつもりはありません。

歴史を紐解けば、これまでの国家経営のスタイルは、自国の利益のためには他国を犠牲にすることが当然でした。植民地を作り、そこで安い労働力と資源を使って生産させ、それを海外に高く売りさばくという原理です。各国がバラバラに経済活動をしていた時代はそれが発展の原理になり得ました。しかし、ここまでグローバル化が進みネットが普及し移動手段が発達してくると、そのやり方は通用しません。世界は密接につながっていて、他国を犠牲にして自国だけが豊かになろうとすれば、たちまち全世界に悪影響を及ぼし、結局は自国にも悪影響となって返ってくるからです。

こうした時代において大切なことは、これまでの「アダムスミスの"見えざる手"」のように、各個人が利益を追求することによって、社会全体の利益がもたらされるという考え方ではなく、まずは全体の幸せを考え、そのために自分は何ができるかという順序で考えるということだと思います。国家経営であれば、人類全体が幸せになるように各国が強みを生かしながら有機的に連携することが大切ですし、企業であれば、全体で成果が上がるように社員一人一人が自分の強みを生かしながら有機的に連携することが大切です。そのことが結果的に「個の幸せ」につながっていくはずです。

それと同じように、私たちオリジナルマインドは、世界のものづくりの中で日本のものづくりはどうあるべきか。そしてその中で小さな作り手はどうあるべきか、という順序で考えねばならないと思っています。その考えにおいては、当社のようなちっぽけな会社であっても決して対象外ではないはずです。これから私たちが提供していく製品やサービスなど、あらゆる活動はすべて、そのことを意識していくつもりです。

私は社員と一体感を感じながら、それを追い求めていけたら最高に幸せだと思っています。
「人類のためのオリジナルマインド」これが私のこれからの人生の大きな課題です。

2017年4月3日
株式会社オリジナルマインド代表取締役社長